ショタラブドールのレビュー漫画に対する個人的見解

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ショタラブドールのレビュー漫画が騒動になっていることを、このnoteで知った。

たまたま該当ツイートは見ていなかったのだが、どうしても気になって探した。何らかを表現しようとする者として、ぜひとも拝見して肝に銘じねばと思ったからだ。

もう無理かと諦め半分で探したところ、たまたま私のスマホにキャッシュされており、幸運にも見ることができた(なお、それをどこかに掲載する意志はない)。

私の正直な感想は、「『ショタラブドールが小児性愛者による犯罪を抑止するものとして有効』と表現できうる文脈なのに、全くそうなっていないことが惜しい」というものだ。

4枚目は1コマめから暗に「こいつはいつか犯罪を犯しうる」としか読めない文脈であり、散々話題となっている「現実の男の子に手を出す前に」という表現がトドメになっている。

完全に「こいつはいつか、現実にもやる。人形に満足できなくなるに違いない」と読めてしまう内容である。本人が実際のところどう思っているかは知らないが、そうとしか読めないと感じる者が多かったからこれだけ話題になっているのだろう。

そして「惜しい」というのは……この漫画がもし「彼が私の衝動を昇華してくれます。もう現実の男の子に目が向くことはないでしょう」などという語り口であったら、小児性愛者によるラブドール体験記として生々しいものであると同時に、犯罪抑止に繋がりうるものとして歓迎されえたと思うのだ。

嫌悪感を呼び起こす内容というのは既に知っていたので、嫌悪自体はそれほどでもなかった。だが重苦しいものは残った。

なぜなら、私は犯罪に繋がりうる衝動をフィクションの描写で昇華しており、その結果、自分がその衝動を現実で満たす気が起こらなくなっていると実感している者だからだ。

誤解を招きうる話なので、書くのには覚悟が要った。だが、この漫画をきっかけにフィクションの暴力・犯罪・性的描写が規制されていくことのほうが私は恐ろしかった。それらが無くなったとき、どこで私の中に起こる衝動を昇華したらいいのかがわからない。捌け口がなくなって、いつか現実に行くのでは……と不安になってしまう。

私は現実に犯罪は犯したくない。そうなるくらいなら自分の命を絶つだろう。だが、衝動が積もり積もった先でずっとその考えでいられるかはわからない。だから、フィクション作品で衝動を満たして、決して現実に出て行かないようにしたいのだ。

私にとって、フィクション作品の暴力・犯罪・性的描写は「自分の代わりに欲求を満たしている仮想のキャラクターを見て、自分もまた欲求を満たす」ものである。具体的な内容は伏せさせていただくが、この点は否定せずに語らねばならない。

だから小児性愛に関する表現規制についても、実は似たようなことを思っている。実在の青少年を守らなければいけないのは当然のことだ。だが、“非実在青少年”がそのような欲求の捌け口になるフィクションの描写は、かえって犯罪抑止になると思っている。だからこそ思う。少年少女の姿をしたラブドールも、きっとそうなっているに違いないと。

そして、多くの人、特に表現規制に賛成する人たちにとっては、そうは見えないのだろうと。

私自身の体験から言えば、表現規制はまるっきり逆効果のことばかりをしている。そういう犯罪的な欲求を持つ者が仮想の存在で欲求を満たし、けして現実に持ち込まないためのものが暴力・犯罪・性的描写だと思うのだ。それがなくなったら、欲求を満たす場がなくなる。仮想のもので満たせないならどうなるか? ここまで書いてきた内容で自明ではないだろうか。

無論、過激な暴力・犯罪・性的描写に倫理観が確立しないうちに触れ、「それを現実に行っても良い」と感じてしまう人が現れる可能性はある。だからこそ過激な内容は“成人向け”なのだ。倫理観がしっかりとできあがり、「法律、社会に反することは絶対の罪」と自覚し、自分の衝動は決して現実で実行してはならないと学んでから、それらの描写に触れるべきなのだ。

だが、考えてみてほしい。フィクション作品で「現実に果たせない欲望や衝動を昇華する」のは、誰でも同じではないだろうか。犯罪のようなどす黒い描写にばかり目を向けるから「表現規制を」などという話になる。異世界での冒険、夢のようなラブロマンス、美しい友情、現実に存在しえないような物語。それらを自分自身の体験として現実に味わえると思っているだろうか? フィクション作品で堪能したとき、心が満たされないか? そしてまた、自分自身の現実を生きようという気持ちにならないか? そして、そのフィクションのような美しい物語を、現実に起こそうなんて気は起きないのではないか?

物事の闇ばかりを見ないでほしい。ぜひ、光にも目を向けてほしい。どちらでも同じことが起きているのだ。現実に起きたら犯罪でしかない描写を楽しむ者たちも、現実に起こす気がないからこそフィクションで楽しんでいるのだ。中には現実にまで持ち込んでいしまう人もいるが、それはその人が犯罪者だっただけである。犯罪を犯す者などそう多くはない。みな、法律を守ることが大切なのは知っているし、社会の一員として生きていきたいのである。

現実世界で自分を律するためにこそ、フィクションの世界ぐらい自由にさせてほしいものだと、私は常々思っている。それこそが“表現の自由”でないだろうか。そして犯罪的な思考を「抱くこと」自体が罪だと言うなら、この世に罪人でない人はひとりもいないのではと私は思っている。

私がこのような文章を誤解を恐れずに掲載することにより、似たような感覚の者たちがほんの少しでも救われることを祈っている。

雑記
SironeriK Memo
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